【本感想:騎士団長殺し】イデアと人生観と冗長なる感想文

慣れないことはするんじゃない。
それは失敗したときのお守りのような言葉だ。
唱えておけば転んでも安心。次からその行為は避けて通ればいい。
人には向き不向きがあるんだから、無理をすることはない。

しかし、慣れてないのにやりたいときはどうする。
それはもちろん、玉砕覚悟で頭から壁に向かってツッコんでいくしかないのだ。


上記の文章が、わたしにとってのお守りだ。
到底立派にできそうにない、正確にいうとまとめきれる自信がない感想文を、今日は書く。

村上春樹作「騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編」の感想文を書いていく。


※この記事は「騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編」のネタバレを含みます







簡単な概要


妻と離婚し、紆余曲折の末、ある家に移り住むことになった肖像画家の主人公。
そこは友人の父である著名な日本画家が住んでいたアトリエであった。
ある日、主人公はアトリエの屋根裏で「騎士団長殺し」という未発表の日本画を見つける。
謎の人物からの肖像画の依頼。深夜に鳴り響く鈴の音と祠。そして、顕れるイデア。細い線で繋がるように、不思議な出来事が起きていく。



騎士団長殺し:第1部は、物語の導入だけあって興味深い点が多かった。
「顕れるイデア」って二重の意味を持っているんだなとか、村上さんの登場人物は昼食を取るようにセックスするなとか、緻密な描写に裏打ちされた説得力を下地として、突飛な展開が繰り広げられるなとか。

学生時代に読んだ「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」が村上春樹デビューだったが、それに比べて極めて読みやすく感じた。
具象と抽象が交じり合う世界観は似ているけれど、基準はあくまで現実世界にあるからだろうか。

一通り読み終わったあと、この物語は一体何を暗示しているのか。何を描きたくて執筆されたのかを考えたくなった。感想も残しておきたいとも。
この難解な物語を自分なりに整理したいと思ったのだ。

しかし幼い頃から、深く考える行為を放棄してきたわたし。有益な感想文の書き方もわからないから、とにかく考えたことを連ねていきたいと思う。



イデアについて


「騎士団長殺し」を読んだら、イデアについて思いを馳せない訳にはいかない。
イデアの語源をWikipediaで調べると。

「イデア」という言葉は「見る」という意味動詞「idein」に由来していて、もともとは「見られるもの」のこと、つまりものの「姿」や「形」を意味している
 
とある。
イデアという言葉は哲学者プラトンが自身の哲学内で論じており、

プラトンは、イデアという言葉で、われわれの肉眼に見える形ではなく、言ってみれば「心の目」「魂の目」によって洞察される純粋な形、つまり「ものごとの真の姿」や「ものごとの原型」に言及する。プラトンのいうイデアは幾何学的な図形の完全な姿がモデルともとれる。

とされている。
イデア=理想値、理想形みたいな感じだろうか。


話中、主人公は「騎士団長」の姿を借りたイデアに会う。
何故会えたのか、その理由だが、主人公自身がイデアに近づいているんではないだろうかと、想像してみた。

彼の人生を考えてみる。
「理想の人生」とか言うけれど、物語冒頭、彼の人生は理想通りではなかっただろう。
妻と別離し、自身の絵すら描けなくなり、流れゆくままに身をまかせている。
しかし「騎士団長殺し」を発見してから、彼は自身が持つ才を今まで以上に発揮できるようになる。

天から授けられた才を、限りなく100%に近い形で使用する。
本人がどう感じるかは二の次として、これが人間という個体の理想値ではないかとわたしは思う。個体としてね。自分がこうなりたいとは思わないけど。
「人間の脳みそは10%しか使われていない」という説は誤認らしいが、感情を優先させ、才を寝かせている人は多いだろう。


第1部が終わった時点で、連鎖反応式に起こっている出来事はまだ終着点を迎えていない。
彼がどんな姿で、どんな感情を浮かべて物語を終えるのか。そして、冒頭以降全く姿を顕さない「顔のない男」は一体どんな形で物語に関わってくるかを楽しみにしたい。



人生観の話


ここで自分の人生観の話を少しする。
幼い頃のわたしは、人生を「成長物語」だと思っていた。

RPGの勇者のように次々と強い武器や防具を手に入れ、レベルアップ。どんどん装備品で着ぶくれしていくのが大人だと思っていた。
装備品を手に入れるには努力が必須で、努力 is 全てと思い込んでいた。若いねえ。

確かに20代頃にはまだ「成長物語」を妄信できてたが、転職し、東京から青森へ移住した後、人生へのイメージは変わってきた。

人生は「守破離」だと思う。

守破離は、芸事・芸術の修行における過程についての考えだ。
師匠から教わった型を「守る」。
型を身に着けたら、他と己を比べて、自らの型を模索し「破る」。
他と己の型、双方に精通した後、既存の型に囚われることなく型から「離れる」。

人間の人生は、そして自分の人生もそうであったらいいなと思う。
真っ新な状態で生まれて知識を詰め込み、他者と己を比較し成長し、そして余分なものを削いで己を研ぎ澄ましていく。
そしたらきっと、自分らしい人生になり、生きやすくなるんじゃないかと。

「騎士団長殺し」の主人公の話に戻ると、彼は「守破離」の「離」の段階に来ているような気がする。来たくて来たわけじゃないだろうけどさ。



感想の終わり、そして第2部へ


「離」の段階に来たとて、装備品をレベルMAXにしたとて、人生という名の物語は終わらない。
大体にして第1部が終わったばかりなのだ。
さあ第2部を読み始めよう。彼の物語を見届けよう。

この感想文が全く的外れかどうかはわからないが、書きたいように書き散らした文をここまで読んでくれた方がいるなら感謝したい。

何にせよ、感想文を書いてから第2部に進みたいと思っていたから、これでやっと肩の荷が下りるというものだ。

また第2部を読んだら感想を書きたい。
イデアに思いを馳せて、次に進もう。


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